羅生門の主題を簡単にわかりやすく説明 解釈も自分なりに考えてみた

羅生門といえば芥川龍之介の有名な作品です。
多くの人が愛読する名作の一つではありますが、

文章そのものが現代の形ではないので
読みづらいという人もいるでしょう。

読んだうえでも、考え方、
解釈も多くに分かれますね。

筆者個人としてはやはり、
自分で何度も読んで
自分なりの解釈をするのが
一番良いかと思いますが、

今回は羅生門にはこんな解釈もあるよ
といった感覚で観ていただければと思います。


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目次

羅生門の主題を簡単にわかりやすく解説 一般的にはこんな感じ


羅生門の物語そのものをざっくり
乱暴に説明してしまうと

「年々治安が悪化している、都の正門である羅生門に主人公が訪れ盗人になってしまう」話です。

盗人になる経緯としては主人公は
元々仕事と家を失ってそこにたどり着き、

そこで死体から髪を抜いている
老婆に怒りを覚えますが、

老婆は自分が髪を抜く人は、
ろくでもない人からしか抜かず、

その髪を使ったかつらを売らねば
生きていけないと主張したことで、

それなら自分も生きるためなら仕方ないという
免罪符を振りかざして追いはぎになるという流れになります。

「生きるためなら悪行が許されるのか?」
あるいは、
「エゴイズムの肯定」

あたりの所が主題としては
わかりやすい所ではないでしょうか。

羅生門の解釈 一般的なものと自分なりの意見もちょっとだけ書いてみる


筆者としては、先述の2点が
主題となっていることは間違いないのですが、

同時に、エゴイズムは一人では生まれない
というように書いているようにも見えます。

というのも、少なくとも老婆に出会った時点では
彼は頭に追いはぎをすれば生きていけることは
わかっていたものの、それをする勇気がなく、

むしろそれに近い行いをする
老婆に対して怒りすら覚えています。

すぐに翻る程度の薄っぺらなものではありますが、
彼にも道徳、あるいは良心と言えるもの自体が
なかったわけではないのです。

彼に追いはぎをする勇気が生まれた瞬間は
老婆の仕方ないという発言ですが、

「そうしなければ生きていけない」
ということは元々主人公も理解しているのです。

それが「生きていくためには仕方のない行為」という認識に
すり替わるのは全く同じように「仕方なく」それをやりつつ、
居直った老婆の存在によるところが大きいでしょう。

そして髪を抜かれた者もその老婆が見る限り
いけないことをしているというのは
明らかだったことから、そういった

「エゴイズム」
「自分本位の悪行」

は、一人だけでは生まれないものであることが読み取れます。

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まとめ 羅生門の主題は本当に仕方のないことなのか


さて、あまり救いもなく、後味の悪い、
しかしどこか引き寄せられるものがある羅生門ですが、

作中では少なくとも登場する老婆もエゴイズムを肯定し
主人公も最終的には老婆と同じ立場になります。

作品内で明示されている情報量自体がさほど
多くないため、想像するしかない部分もありますが、

これらのエゴイズムは誰もがもっていて、
それを前面に押し出した結果そうなったように
筆者には読み取れます。

そもそもの話として治安が悪化するまでに、
そもそもの原因となった災害などによって
壊れた金目の物を売りはらうような人、

羅生門のような公共施設も
誰も修理しないという状態。

誰もが自分優先のエゴイストだったことが
読み取れるように書かれています。

もし、こういったときに
エゴよりも公共の秩序、
あるいは社会正義を優先して

羅生門を修理する人がいれば、
盗人が羅生門という住処を得ることはありません。

あるいはもっと言えば
盗人自体も生まれないということも言えるでしょう。

エゴイズムは誰もが簡単に陥る物でもありますが、
同時に、少し誰かが一歩踏み出せば、

エゴイズムによる悲劇を避けられるかもしれない
ことが示唆されているように思えます。

だからこそ余計に救いがない話のようにも
個人的には思えますが。

いずれにせよ、
エゴイズムそのものは悪ではありません。

しかし、だれもがそれを優先すれば
やはり治安の悪い世の中になるでしょう。

個人の幸福や生きるという都合と社会と
どのように折り合いをつけていくか、

この作品をきっかけに少し深く考えるのも
良いかもしれませんね。

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